恐怖の香港啓徳(カイタック)空港

今日は不動産のお話ではありませんが、私が1998年、香港の啓徳空港に初めて降り立ったときのお話です。まるで映画のワンシーンのようでした。啓徳空港は、世界でも有名な「恐怖の空港」として知られており、その名に恥じないスリル満点の着陸体験が待っていました。

飛行機が香港の上空に差し掛かると、窓の外には高層ビルが迫りくるように見えました。まるでビルの間を縫うように飛んでいるかのようで、心臓がドキドキと高鳴ります。隣の席の乗客も、窓の外を見ながら「これが本当に空港に向かっているのか?」と不安そうな表情を浮かべていました。

そして、いよいよ着陸態勢に入ると、飛行機は急降下を始めました。まるでジェットコースターに乗っているかのような感覚で、シートベルトをしっかりと締め直しました。機内アナウンスが「まもなく着陸します」と告げると、乗客全員が一斉に深呼吸をして、心の準備を整えました。

飛行機が滑走路に接地する瞬間、まるで地面に叩きつけられるような衝撃が走りました。しかし、パイロットの腕前は見事で、無事に着陸成功。機内には安堵のため息と拍手が湧き起こりました。隣の席の乗客と顔を見合わせ、「これが啓徳空港の洗礼か」と笑い合いました。

空港を出ると、香港の街並みが広がり、冒険の始まりを告げていました。啓徳空港での着陸は、まさに香港旅行のハイライトとなり、今でも友人たちに話すときには欠かせないエピソードです。

ちなみに、この訪問は1998年の閉港直前のことでした。啓徳空港の最後の姿を目に焼き付けることができたのは、今となっては貴重な思い出です。

1988年4月の思い出:オクト株式会社新卒入社

1988年4月、私はオクト株式会社に新卒として入社しました。当時はバブル景気の真っ只中で、経済全体が活気に満ち溢れていました。入社後の研修を終え、新宿支店に配属され、温泉付きリゾートマンション「リーヴル石和」の販売を担当することになりました。

リーヴル石和の販売

リーヴル石和は、山梨県石和町川中島に位置し、価格帯は2500万円台から2700万円台でした。1988年6月に完成し、現地事務所には当番制で定期的に東京から車で通い、待機していました。バブル景気の影響で不動産市場は活況を呈していましたが、山梨県という都心から離れた場所での販売は、都内のように簡単にはいきませんでした。

リニアモーターカーへの期待

当時、リニアモーターカーの実験線が1997年頃に完成し、その後本線となり山梨県に駅ができるという計画がありました。この計画により、将来的な値上がりが期待されていました。1988年当時は、その期待に胸を膨らませていました。

リゾート法と7兆円産業の期待

1987年には、総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定されました。この法律は、リゾート産業の振興と国民経済の均衡的発展を促進するために、多様な余暇活動が楽しめる場を整備することを目的としていました。リゾート法の施行により、地方のリゾート開発が活発化し、税制上の優遇措置や政府系金融機関からの低利融資が行われました。この結果、リゾート産業は7兆円規模の産業になると期待されていましたが、実際にはその期待に応えることはできず、失敗に終わりました。

36年後の現状

あれから36年の月日が流れ、ようやくリニア中央新幹線の開通の目途が立ってきました。しかし、当時の期待とは裏腹に、現在の中古流通価格は500万円から600万円程度に低迷しています。長い年月を経て、当時の期待と現実のギャップを感じずにはいられません。

このように、1988年の思い出と現在の状況を振り返ると、時代の移り変わりとともに変わっていく不動産市場の現実を実感します。

最上恒産と早坂太吉:地上げの帝王の栄光と凋落

はじめに

1980年代後半、日本の不動産市場はバブル景気に沸き立っていました。その中で「地上げの帝王」として知られた人物がいました。それが、最上恒産の創業者である早坂太吉です。彼の波乱万丈な人生と地上げの手法について見ていきましょう。

早坂太吉の生い立ち

早坂太吉は1935年、山形県の貧しい家庭に生まれました。幼少期に両親を亡くし、兄弟に育てられた彼は、中学卒業後に上京し、大工として働き始めました。その後、不動産業に転身し、22歳で建売業を始めました。

地上げの手法と成功

1980年代、バブル景気の波に乗り、早坂は東京・西新宿の土地を主に地上げを成功させました。地上げとは、細かい土地を買い集め、大きくまとめて転売する手法です。彼は暴力団との関係を利用し、強引な手法で土地を取得しました。その結果、最上恒産は一躍有名企業となり、企業所得ランキングで第3位にランクインしました。

栄光と凋落

早坂の成功は一時的なものでした。バブル崩壊後、最上恒産は倒産し、彼自身も所得税法違反で有罪判決を受けました。その後も彼の生活は波乱に満ちており、2001年に脳梗塞で倒れた後、2006年に亡くなりました。

まとめ

早坂太吉の人生は、バブル景気の象徴とも言えるものでした。彼の成功と失敗は、不動産業界の光と影を如実に物語っています。地上げという手法がもたらした一時的な栄光と、その後の凋落は、現代の私たちにも多くの教訓を与えてくれます。