1988年~の不動産営業の思い出

1988年から在籍していた不動産会社では、営業部門が二つに分かれていました。一つは社有物件である一棟売物件を販売する部門、もう一つは区分所有物件を販売する部門です。私は主に区分所有物件を販売する部門に所属していました。

営業方法の違い

両部門の営業方法には大きな違いがありました。一棟売物件を扱う部門では、都内の不動産仲介業者に資料を持参して片っ端から訪問するという方法を取っていました。一方、区分所有物件を扱う部門では、社内でタウンページを使ってお店や会社、一般家庭の電話帳から片っ端から電話をかけてアポイントを取るという方法でした。

当時は名簿などはなく、手作業で電話番号を探して営業をしていました。特に外で営業しろとか社内で電話をしろとか、営業方法を指定されていたわけではありませんでしたが、自然とこのような分担ができていました。

社外営業の実態

一棟売物件を扱う部門の社員は、本当に仲介業者を訪問していたと思いますが、区分所有物件を扱う部門の社員の中には「社外へ営業に行ってきます」と言ってどこかへ行ってしまう人が半分以上いました。彼らはおそらく仕事をせずにサボっていたのだと思います。

私の営業スタイル

私は社内に残ってひたすら電話をかけて営業をしていました。地道な作業でしたが、その分成果が出たときの喜びもひとしおでした。電話を通じてお客様と直接話すことで、信頼関係を築くことができたのも大きな収穫でした。

企業秘密:販売用不動産の仕入れ価格について

不動産業界において、販売用不動産の仕入れ価格は非常に重要な情報です。しかし、時折お客様から「こちらの物件はいくらで仕入れたのですか?」と直接的な質問を受けることがあります。このような質問に対しては、さすがにお答えすることはできません。なぜなら、それは企業秘密だからです。

企業秘密の重要性

企業秘密とは、競争優位性を保つために外部に漏らしてはいけない情報のことを指します。販売用不動産の仕入れ価格もその一つです。この情報が公開されると、競合他社に戦略を見透かされるリスクがあり、ビジネスに悪影響を及ぼす可能性があります。

お客様への対応

お客様に対しては、丁寧に説明することが大切です。「申し訳ありませんが、仕入れ価格に関する情報は企業秘密となっておりますので、お答えできません。」といった形で、理解を求めることが重要です。お客様の信頼を損なわないように、誠実な対応を心がけましょう。

まとめ

不動産業界では、企業秘密を守ることが非常に重要です。お客様からの質問に対しても、適切に対応し、信頼関係を築くことが求められます。これからも、お客様に満足いただけるサービスを提供しつつ、企業秘密をしっかりと守っていきましょう。

住宅ローンの変動金利上昇が与える影響:年数による違い

最近、大手5行(三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行、三井住友信託銀行、りそな銀行)が10月から変動金利を0.15%引き上げる方針を発表しました。この金利上昇は、変動金利で住宅ローンを借りている多くの家計に影響を与えることが予想されます。特に、ローンを借りてからの経過年数によって、その影響は大きく異なる可能性があります。

1. 住宅ローンを借りてから年数が経過している場合

住宅ローンを借りてから数年が経過している場合、以下のような影響が考えられます:

  • 元本の減少:ローンの初期段階では、返済額の大部分が利息に充てられますが、年数が経過するにつれて元本の返済割合が増えます。したがって、金利上昇の影響は比較的少なくなります。
  • 返済計画の見直し:既に返済が進んでいるため、金利上昇による月々の返済額の増加は限定的です。しかし、長期的な返済計画の見直しが必要になるかもしれません。
  • 固定金利への切り替え:金利上昇が続く場合、固定金利への切り替えを検討することも一つの手段です。これにより、将来的な金利上昇リスクを回避できます。

2. 住宅ローンを借りてから年数が経過していない場合

一方、住宅ローンを借りてからまだ年数が経過していない場合、以下のような影響が考えられます:

  • 利息負担の増加:ローンの初期段階では、返済額の大部分が利息に充てられるため、金利上昇の影響を大きく受けます。月々の返済額が増加し、家計への負担が増す可能性があります。
  • 返済計画の再検討:金利上昇により、返済計画の見直しが必要になるかもしれません。特に、家計の収支バランスを見直し、無理のない返済計画を立てることが重要です。
  • 固定金利への切り替え検討:金利上昇リスクを避けるために、早期に固定金利への切り替えを検討することも一つの手段です。これにより、将来的な金利上昇による負担を軽減できます。

まとめ

変動金利の上昇は、住宅ローンを借りている多くの家計に影響を与えますが、ローンを借りてからの経過年数によってその影響は異なります。年数が経過している場合は影響が比較的少ない一方で、経過していない場合は利息負担の増加が大きな課題となります。いずれの場合も、返済計画の見直しや固定金利への切り替えを検討することが重要です。

1988年から在籍していた不動産会社での出来事

当時、毎日のように遅刻してくる男性社員がいました。彼は営業成績が良かったため、上司から叱責はされるものの、大きな問題にはなっていませんでした。しかし、遅刻があまりにも続いたため、ある日、上司が突然切れて彼を殴り始めました。

その場面は衝撃的でした。彼は抵抗することもなく、血だらけになってしまいました。普通であれば、これは傷害事件として扱われるべきですが、当時の社会は今とは違い、隠ぺい体質がまかり通っていました。そのため、この出来事も事件としては扱われず、社内で隠されてしまいました。 この経験は、当時の職場環境や社会の風潮を象徴するものでした。今では考えられないようなことが、当時は普通に行われていたのです。

バブル期の不動産投資の思い出

1988年から1990年にかけて、日本はバブル経済の真っ只中にありました。この時期、毎度申し上げていますが、私は不動産会社に勤務しており、多くのお客様が投資目的で物件を購入しているのを目の当たりにしていました。投資というより投機目的になっていたかもしれません。その中でも特に印象的だったのが、大京のライオンズマンションばかりを購入していたお客様の話です。

青田売りの時代

当時、ライオンズマンションは非常に人気があり、未完成の状態でも購入希望者が殺到していました。あるお客様は、半年後に完成予定のライオンズマンションを手付金だけで契約し、2000万円で購入しました。完成前の物件を購入することを「青田売り」と言いますが、この手法はバブル期には一般的でした。

投資の成功

半年後、マンションが完成すると、お客様は残りの代金を支払い、すぐに物件を売りに出しました。驚くことに、すぐに買い手が見つかり、4000万円で売却することができました。わずか半年で倍の価格で売れたのです。このような成功例は、当時の不動産市場の過熱ぶりを象徴しています。

抽選での購入

ライオンズマンションの人気は非常に高く、購入するためには抽選に参加しなければならないほどでした。多くの人々が投資目的で物件を購入し、その後の値上がりを期待していました。このような状況は、バブル経済の象徴的なエピソードの一つと言えるでしょう。

バブル期の不動産市場は、今では考えられないほどの熱気に包まれていました。あの時代を振り返ると、投資の成功と失敗が交錯する中で、多くの人々が夢を追い求めていたことが思い出されます。

1988年頃の不動産営業の実態

1988年頃の不動産業界は、バブル経済の真っ只中にあり、営業手法も今とは大きく異なっていました。ここでは、当時の不動産営業の実態を振り返りながら、その独特な営業スタイルについてご紹介します。

ゴルフでの営業活動

当時の不動産営業マンにとって、ゴルフは重要な営業ツールでした。お客様をゴルフに誘い、プレーを楽しみながら自然な形で関係を深めることが一般的でした。ゴルフ場での会話はリラックスした雰囲気の中で行われ、営業マンはお客様の信頼を得るために、友人や知人を紹介してもらうことも多かったです。ゴルフの後には連絡先を交換し、後日改めて営業訪問を行い、物件購入の段取りを進めるという流れが一般的でした。

徹夜マージャンでの営業

また、徹夜マージャンも営業活動の一環として行われていました。お客様の家で毎週のように徹夜でマージャンを楽しみながら、その場にいる人々に対して営業を行うという手法です。マージャンを通じてお客様との絆を深めるだけでなく、その場にいる他の参加者にも自然に営業をかけることができました。徹夜でのマージャンは体力的には厳しいものの、営業マンにとっては重要な人脈作りの場でもありました。

まとめ

1988年の不動産営業は、現在とは異なる独特な手法が多く見られました。ゴルフやマージャンといった娯楽を通じてお客様との関係を築き、信頼を得ることで営業活動を成功させることが求められていました。これらの手法は、当時のバブル経済の影響もあり、非常に効果的な営業手段として広く活用されていたのです。 このような営業スタイルは、現代のビジネスシーンではあまり見られなくなりましたが、当時の営業マンたちの努力と工夫が垣間見える興味深いエピソードです。

厳しい営業会議とその裏側:オクト株式会社での経験

1988年から在籍していた不動産会社、オクト株式会社では、毎週金曜日に営業会議が行われていました。この会議は、当月の契約がなかったり、契約見込みがない営業マンにとっては恐怖の時間でした。なぜなら、そういった状況にある者は徹底的につるし上げられるからです。

営業会議のプレッシャー

営業会議では、各営業マンがその月の成果を報告し、今後の見込みについても話し合います。契約がない場合や見込みが薄い場合、上司から厳しい叱責を受けることが常でした。このプレッシャーは非常に大きく、多くの営業マンがストレスを感じていました。

ずるいやつの逃げ道

しかし、中にはこの厳しい会議から逃れるために、虚偽のアポイントを入れる者もいました。営業会議の時間にわざと外出し、会議を欠席することで叱責を免れようとするのです。こうした行動は一時的な逃げ道に過ぎず、根本的な問題解決にはなりませんが、当時の厳しい環境ではそれも一つの生き残り策だったのかもしれません。

まとめ

オクト株式会社での経験は、営業マンとしての成長を促す一方で、厳しい現実も突きつけられるものでした。営業会議のプレッシャーや、それに対する逃げ道を見つけるための工夫など、さまざまな経験が今の自分を形成しています。厳しい環境であっても、それを乗り越えることで得られるものも多いのです。

1988年頃の営業マンの実態

1988年ごろの日本の企業文化は、今とはかなり異なっていました。特に営業マンの働き方には、現代では考えられないようなエピソードがたくさんあります。

営業マンの「二重生活」

当時の営業マンの中には、昼間は会社員として働き、夜はアルバイトをして生計を立てている人も少なくありませんでした。ある営業マンは、毎晩遅くまでアルバイトをして、朝になると会社に出社。上司や同僚には「営業に行ってきます」と言い残し、実際には近くの喫茶店で仮眠を取っていたという話もあります。

喫茶店でのひととき

その営業マンにとって、喫茶店はまさにオアシスでした。コーヒーの香りに包まれながら、短い休息を取ることで、また次の仕事に向けてエネルギーをチャージしていたのです。喫茶店の常連客や店員とも顔なじみになり、時には営業のヒントをもらうこともあったとか。

いい加減な会社と営業マン

当時の企業文化は、今ほど厳格ではなく、営業マンも自由奔放に働いていました。成果さえ出せば、多少のサボりやアルバイトも黙認されることが多かったのです。そんな時代だからこそ、営業マンたちは自分なりの工夫で仕事と生活を両立させていたのでしょう。